辛苦最憐天上月
一昔如環
昔々長如夬
但似月輪終皎潔
不辞氷雪為卿熱
無奈鍾情容易絶
燕子依然
軟踏簾鈎説
唱罷秋墳愁未歇
春叢認取雙棲蝶
By　納蘭性徳
蝶戀歌1
江東の地、丹陽太守　呉璟（ごえい）の養女であるは周瑜、孫策らとともに幼少期を過ごした。
明朗快活な孫策と眉目秀麗な周瑜とは年は7つも離れてはいたが、孫策に義妹の孫尚香という年の近い義妹がいたこともあって、彼らは常に一緒にいて共に幼少期を過ごした。
呉璟は孫策の叔父で、周瑜は呉璟が丹陽太守となる前の太守、周尚の甥にあたる。
周尚と呉璟は仲がよく、二人の口約束で周瑜との婚約が決められた。
といっても5歳、周瑜12歳の時である。
にとっては周瑜は孫策に並んで兄ともいえる人であった。
だから婚約といってもぴんとこないし、だからどうこう、ということもない。
やがて孫策、周瑜が17歳のとき、二人は義兄弟の契りを結んだ。
時は乱世にはいり、漢室は地に落ち、群雄割拠の時代に突入する。


には本当の父と母がいる。
名もない武将の父と慎ましやかな母親である。
の母親の妹が呉璟の目に止まり妾となったのであるが、その縁では呉璟の養女となった。
呉璟には娘がおらず、常々娘を手元で育てたいという希望があったからである。
にはそんなわけで実の両親が健在なのであるが、養女になったからといって全く実の親と縁がなくなったわけではない。
どちらかというと孝行娘で、なにくれと実の両親のもとへ金品を届け、暇があれば顔をみせて孝行を尽くし、それを義父の呉璟も今時にはない孝行娘よと自慢をしていた。
そんなある日、衝撃的なことが起こる。
江東の虎、孫堅の死であった。
その子、孫策は袁術のもとへ投じる。
の父は孫策に従って袁紹のもとへと参じたのである。
ある日は義父呉璟に呼ばれた。
呉璟が手にしていたのはの父からの手紙であった。
丹陽太守呉璟の養女を、袁術の一族のものと娶わせたいのでに袁術のもとへ来るようにという内容のものであった。
実はこの頃から呉璟は地元の豪族たちに手を焼き始めていた。
乱世の世であれば仕方のないことではあるが、強大な勢力を持つ袁術の支援が、喉から手が出るほど呉璟には欲しいものであった。
しかしは口約束とはいえ周瑜の婚約者である。
周尚を裏切るような気持ちが呉璟にはたまらなく辛い。
そんな義父の心中を聡明なは十分悟っていた。

「お義父さま、に孝を為すことを教えてくださったのはお義父さまです。お義父さまには大変感謝しておりますが、は切れぬ親子の縁のために親に孝をなしに行きとうございます。どうか私が父のもとへ参るのをお許し願えませんでしょうか。」

といって、は父からの手紙を灯火に燃やした。
呉璟はさめざめと泣いた。

「周尚さまには私からお許しをいただいてまいります。」

は護衛兵を何人かと侍女を伴って前任丹陽太守、周尚のもとへと訪れた。
周尚はただ黙って頷いた。
同席した周瑜も何も言わなかった。
乱世において、女は道具として使われることはままある話である。
は兄のように慕ってやまなかった周瑜の顔を今一度見つめた。
眉目秀麗とはまさに彼のための言葉である。
もう二度と会うことはない婚約者の顔を今一度眺め、は席を立った。
そして丹陽の地をさることとなる。
思わぬ形で周瑜と再会するのはそれからしばらく後のこととなる―――。









は孫尚香とともに幼い頃から武術をよくし、弓腰姫と呼ばれる尚香に対して剣掌姫と呼ばれ、剣をよくし兵法を学んだ武将でもあった。
そのことから袁術はを一族のものに娶わせるよりも武将として登用する。
やがて孫策が袁術のもとから離れ、江東の地を目指す。
しかし袁術が孫策に与えた武将の中には入れなかった。
孫策がを連れて脱出してもよいと提案をするも、孫策に迷惑をかけられないと判じたはそれを断り、寿春城を出て行く孫策を見送ることしかできなかった。
自分が孫策についていけば、せっかく孫策が袁術のもとを上手く離れることができるというこの期に、よからぬ軋みが生じることを懸念してのことだった。
自分ひとりのわがままで未来ある孫策を犠牲にはできない。
斜陽の時の袁氏ではあるものの、その力は強大であることにはちがいなかったからだった。
その後、の奮戦も空しく袁術軍は魏軍に破れ、は計らずも流浪の身となった。
は戦乱を避けながら故郷丹陽へと帰ろうと試みるも、馬もなければ粮秣（りょうまつ/食料）もない。
女の身一つで揚州丹陽へ行くために細々と生活をしながらじりじり進むしかなかったのである。
武具を持ってはいたが、これを手放すのは今の時世では死すことともいえるほどに危険なこと。
は細剣と短檄のみを手に、関所を避けながらようやく汝南の地までたどりついたところであった。
臥牛山の山村は比較的落ち着いた山村で、はしばらくここで過ごして粮秣を得、丹陽の地を目指すことにする。
くずれかけた農家に転がり込んで農業を手伝いながらは山賊の噂を聞いた。

「周倉という山賊がこの村を守ってるの？」

は興味深げに農夫の一人に聞き返した。
山賊は山寨を築いて治安維持にあたるのはさして不思議なことではないというのは、一人旅を続けてきたはよく知っている。
山寨を築くことのできるほど強大な山賊は、山村を他の流賊から命を賭して守ってくれるものである。
農夫たちは自分たちを守ってくれる山賊に何某かの粮秣を送り、そこに相互関係が生まれるのである。
しかしが興味を惹かれたのは周倉という人物が蜀の関羽に傾倒しているという話であった。
関羽の話は袁術のもとにいた頃からよく聞いて知っている。
最期に関羽の話を聞いたのは彼が魏軍の客将として顔良と文醜を斬ったことであったか。
確かに敵対した武将の中で、関羽は非常に魅力的な武将であった。
強く勇ましく、赤兎馬に乗って戦場を駆ける関羽は素晴らしかった。

「周倉は関羽の弟子になりたくて、関羽を出迎えに行ってるのさ。」

農夫の言葉には大いに心を動かされた。
聞けば関羽は義兄、劉備のもとへ参じるためにこの汝南の地を通るそうなのだ。
はいてもたってもいられなくなって早々に農作業を切り上げて周倉の山寨へと向かった。
周倉が関羽を出迎えに行っているのは知っていたが、彼はこの山寨に家族や郎党を残している。
それを放り出してそのまま関羽に付き従うとは考えられなかった。
だから必ず周倉はここに帰ってくる、運悪く関羽のもとに周倉が参じることができなくとも、彼はいつかこの山寨から劉備のもとへ行くだろう。
劉備は漢室復興を旗印に挙兵を何度もしている。
どうせ流浪の身なれば何も江東の地にこだわる必要がないようにには思えた。
関羽や張飛といった魅力的な武将のもとで働くのもまたひとつの人生のような気がしてきたのだ。
兄のように慕った孫策や周瑜のもとへ行くべきだ、という心ももちろんある。
しかし乱世のこの世、自分の思うままに生きてみるのもいいとは思ったのだ。
今まで孝に尽くし、自分の心も意見もすべて殺して生きてきた。

――もう、自分の思うままに生きてもいいよね？

は山寨の前で小さく息を吐いた。

「ごめんつかまつる！」

不意にの横から大きな声が響いた。
よく通る声には、素直な明るさがあった。
槍を手にした屈強な青年であった。
青年はすっと槍を構えると、素早く山寨の中に入り込み、警備の賊徒に突進していった。
あっと思う間もなく、賊徒はしたたか足を槍でとられ見事なまでにこける。
は思わずくすりと笑った。
瞬間青年と目が合った。
一瞬のことなのに、青年がはにかむような、いたずらを見られた子どものような表情をして笑った。
はその青年の表情に一瞬どきりとする。

「危ないっ！」

青年の声に横から斬りかかってきた賊徒の太刀を反射的には避ける。
そのまま自然な動きでは細剣を抜き、柄の部分で賊徒の背後に一撃をくれる。
賊徒は一瞬にして気を失い、どさりと倒れた。

「お見事！」

青年が満面の笑顔で笑った。
しかし凄まじい銅鑼の音が鳴り響いたと思ったら、多数の賊徒が二人を取り巻き始めた。

「ちょっと待ってよ、私、何も戦いに来たわけじゃないわ！」

は驚いて思わず声をあげる。
しかし青年は至って呑気なもので。
の背後に素早く移動したかと思うと、ぴったりと背をつけた。

「相手は戦う気まんまんですよ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。」
「あなたが勝手にはじめた戦いでしょ！私は巻き込まれただけだわ！」
「私にとっては嬉しい加勢ですよ。なかなかの腕前の持ち主のようですね。私の目的はこの山寨を乗っ取ることだけです。お手伝いください！」

そういって槍を手にした青年は賊徒を殺さないように気をつけながら、見事な一撃を繰り出してゆく。
は呆気にとられながらも降るように繰り出される太刀や槍をかわしながら、やはり賊徒を傷つけないように身軽な動きで相手の動きを封じていく。
は半ばやけくそ気味に青年に従って気が付けば賊徒はすべて降参していた。

「いきなり襲って悪かったね。粮秣庫はどこかな？」

青年はにっこりと笑って賊徒の中でも一番格の上そうな男の胸倉を掴んだ。
先ほどの槍さばきを見て、賊徒はぶるぶる震えながら粮秣庫のほうを指差す。

「そうそう、馬小屋の場所も聞きたいな。」

青年はずるずると男を引っ張って馬小屋を案内させた。
も仕方なくそれに付き従う。
馬小屋には何十頭という馬が飼われていた。
その一頭一頭を青年は丹念に見る。
案内した男は仲間のもとに慌てて戻って行った。

「呆れた。山賊の山寨を乗っ取る賊がいるなんてね。あなたってとんでもない山賊なのね。」

は腕を組んで眉を顰めて青年を責めた。
しかし青年はけろっとしている。

「ある方のもとへ参じようと思っているのだけど、粮秣は尽きるし、馬はダメになってしまったしで、どうにもならなくて。山賊から巻き上げるのであれば民に迷惑はかからないだろうと思ったのですが。」

は天を仰いだ。

「山賊は山賊でも、ここの山賊は近くの山村の治安維持の活動をしてること知らないの？結局ここを襲うってことは山村を襲ってるのと同じことよ、とんでもない輩だわ。」

の言葉に青年はくるりと振り返る。
その表情は驚きと、そして反省の色を濃くしている。

「そうだったのですか・・・。私は知らぬとはいえ、とんでもないことをしてしまったようですね・・・。ああ、ではこうしましょう。これは彼らから借りるということにします。出世払いではありますが、必ず返しにくるとしましょう。」

青年は自分で思いついた案に至極満足そうである。
は呆れて青年をぽかんとみていたが、そのうちくすくすと笑い出した。

「おもしろい人ね、あなた。名前はなんていうの？私はというの。」

青年はの言葉に満面の笑みを湛えた。

「私は趙雲、字は子竜、公孫サンに仕える武将の末席におりました。冀州は常山の出身です。」

その言葉には驚く。
公孫サンのもとに一人槍使いのすごい武将がいることは、袁術軍の中でもよく話題になっていた。
最終的には公孫?は袁紹軍に破れて公孫?自身が自決をした。
その後の彼の配下の武将は袁に投降するものあり、魏に流れたものあり、行方知らずになって散り散りになった。
その槍使いの素晴らしい武将は投降せず、行方をくらましたとの噂であった。
まさかその彼にこのようなところで会うとはは思ってもみなかった。

「あなたもどこかに仕官していたのではないですか？剣の腕前はなかなかのものですが。」

趙雲がにこにこと人のよさそうな笑顔で聞いてくる。
は自分が袁に投じていたことを言うべきか言わざるべきか迷う。
その様子を趙雲がどう捉えたのか。

「まあ、どっちみち仕える人がいないからこのようなところにいるのですよね、も私も。」

屈託なく笑う趙雲にはほっとする。
が仕えていたのは袁術である。
彼の主人の公孫?を討った袁紹の弟にあたる人物である。

「私、袁術軍にいたことがあるの。出身は丹陽なの。軍から離れて故郷へかえるところだったんだけど・・・。」

そこまでいっては小さく息を吐いた。

「故郷に帰っても私は私の道を見つけられないような気がして・・・。」

表情を曇らせたに趙雲がそっと側に寄る。
馬小屋の柵に並んでもたれる。

「もともと袁軍にいたのは私の希望でもなんでもなくて、周りに流されるまま・・・だったの。故郷の義父は大好きだけど、私は義父の言われるままの人形にしかすぎなくなってしまう・・・。」

「だから山賊になろうとここの門をくぐったのですか？」

思っても見ない趙雲の言葉にぱっとは顔をあげた。
目の前にいたずらっぽく微笑む趙雲がある。
一瞬ぽかんとしては噴出した。

「そんなことあるわけないじゃない！私はここの頭領が魏の客将となっていた関羽様の配下になるため、関羽様をお迎えに行ってると聞いて、私もその配下に加えていただけたら・・・と思ってきたのよ。」

の言葉に趙雲が今度は驚く番であった。

「関羽様がっ！？それは本当なのですか？！」

趙雲の様子にはそれが単に関羽という一騎討千の武将に対する憧れだけではないと判ずる。

「あなた、関羽様を知ってらっしゃるの？」

の言葉に趙雲が嬉しそうに答える。

「公孫?様に仕えるように促してくださったのが関羽様の義兄様の劉備様なのです。一度冀州での戦の折、公孫?様の御助成をした縁で、劉備様、張飛様、関羽様とお近づきになって。公孫?様はもういないし、劉備様にお仕えしようと皆様をお探ししている旅路の最中なんです。」

公孫?に使えていた槍使いの素晴らしい武将が劉備の口添えで公孫?に仕えることとなった、という事実にはちょっと驚いた。
思った以上に劉備という武将は人を見抜く力に長けるだけではなく、抜群の人を惹きつける力を持つ男なのだと感嘆する。
素晴らしい槍の腕前を持つならば、劉備は是が非でも自分の手元に置きたかっただろう。
それを公孫?に仕えるようにうながしたというのだからただものではない。
趙雲の眼差しは熱っぽく、男として、主人として劉備を慕っているのがにはよくわかった。

「探してる最中で山賊の山寨を乗っ取り、山賊になっちゃったわね、あなたも私も。」

のからかいに趙雲が目を見開く。
二人しばらく顔を見合わせてどちらからともなく笑った。

「本当に申し訳ないことしましたね。周倉殿が戻ってきたらきちんと謝ろう。」

屈託のない趙雲には好意を覚えずにはいられなかった。
幼い頃から接してきた周瑜や孫策、孫権は兄のように慕うことはできたが、自分と同じ目線で話すことはなかった。
袁術のもとにいるときの他の武将たちは、女というだけで侮って自分を見ていて、まともに接してくれるものは張コウくらいのものであった。
改めては劉備のもとに参じたいと思う。
趙雲や関羽を惹きつける、漢室復興をかかげるその男に自分の未来をかけてみたい気になる。

「今周倉は関羽様をお迎えに出払っているわ。だからたった二人とはいえ、この山寨を乗っ取ることができちゃったのよ。しばらくここで待たせてもらいましょう。」

と趙雲はそのまま山寨に客人用の幕舎を用意させ、そこで頭領周倉の帰りを待つ。
果たして周倉は帰ってきた。
驚いた周倉は客人用の幕舎にいる狼藉者のもとへ剣を片手に飛んでいった。
出迎えた趙雲は周倉の繰り出す一撃を難なくかわしながら話合いを求める。
しかし関羽の配下になったばかりの周倉は、プライドをかけて戦いに挑んでくる。
仕方ないので、趙雲は周倉になるべく怪我をさせないように気を使いながらも一撃を繰り出す。
したたか槍の柄で腰を打ち付けられ、背中を打ち付けられ、周倉はぼろぼろになりながらも果敢に挑んでくる。
しかしこのままでは本当に周倉を殺しかねなくなってしまうので、鳩尾に槍の柄を打ちつけ周倉を気絶させた。
そのまま副頭領のもとに周倉を連れて行く。
再び趙雲は思案しながらのもとへ行く。
は我関せずの様子で周倉が趙雲に挑むのを見ていただけであった。

「、失礼してもいいですか？」

幕舎の前でに一声かける。
が顔をのぞかせた。

「周倉と話し合いはできた？」

の言葉に趙雲が項垂れて頭を振った。
は趙雲の手をとって幕舎のなかへ入れた。

「そう。じゃあ近いうちに関羽様がここに見えるわ。心配しなくてもいいわよ。」

はあっさりとそういうと、趙雲にお茶をすすめた。
粮秣庫からもらってきたもののひとつである。

「何故そう言いきれるのですか？」

趙雲はまじまじとを見た。
周倉は手勢を連れてこの山寨に帰ってきた。
関羽を迎えに行ってその当の関羽がいない。
趙雲はがっかりしたのだ。
関羽の様子を聞こうと思っていた周倉からは敵意もあらわに決死の戦いを挑まれるし、趙雲にとっては散々である。
なのにはそ知らぬ顔のまま。
なのにもうすぐ関羽がここに来るという。

「周倉は関羽様の配下になれたのよ。だからあなたにズタボロにされながらも決死の戦いを挑んできたんだわ。関羽様の配下としてのプライドをかけてね。関羽様はきっと周倉が戻ってくるのを待ってる。周倉がここに戻ったのは残りの配下を連れてくるのと、彼の家族を連れてくるのが目的だったんだから。でも周倉のあの怪我の様子じゃ当分動けないわね・・・。だから待ちぼうけを食わされてる関羽様が周倉を心配してもうすぐ来るわ。」

の説明に趙雲はなるほどと合点がいった。
思った以上には洞察力に長けているようである。
かくして。
ほどなく周倉を心配した関羽が山寨に訪れる。
そして旧知の青年武将を目に関羽が喜んだのは間違いがない。
周倉とも和解し、は彼らと共に劉備のもとへ目指す。
県官を追い出して古城の主となった張飛と合流し、彼らは劉備の元に集った。
劉備が予州太守に返り咲き、ここに蜀が誕生する。
は蜀の武将としての人生を歩み始める。
それははじめて彼女が望んだ道であった。