花釵

内殿から正寝へと向かうその廊の一角で、少女の金切り声が響いた。

「だからいってるでしょ!私はこの書を明日の朝議までにすべて頭に叩き込まなくちゃいけないの!そして審議しなくちゃならないの!ここで言い争ってる時間すら惜しいのよ!わかったらさっさと下がりなさい!」

珠晶はくるっとふりむいて、後ろからついてくる供麒に一気にまくしたてた。
そう、珠晶は忙しいのだ。
こんなとこで言い争っている時間が惜しいのだ。
そんな暇すらあったら、覚えなくてはならないことは山ほどあるし、考えなくてはならないことはそれ以上にある。
わずかな暇があればすう虞に騎乗して視察のひとつでもしたい。(今のところほとんど叶っていない)
しかし珠晶の思惑をよそに、彼女の麒麟はいつも確かに後ろをくっついて離れないが、今日は特に食い下がってくる。

「主上、でもここ最近ほとんど寝ていらっしゃらないでしょう?いい加減体を休めないと主上の身体に障ります。まだこんなに小さいので・・・す、うっ?」

供麒がすべてを言い終わらないうちに珠晶の右手が供麒の口に何かを突っ込んだ。
本を読みながら昼食を摂り損ねた分をおやつで補おうと思って、女官に頼んで作らせた饅頭を口に突っ込んだのだ。

「いい加減にしてちょうだい、供麒。私はこれでも七十二歳なんだから。身体は十二歳のままでもね!生憎王様ってお仕事は子どもの身体だから軽減されることはないの。わかった?慈悲深いのは結構、その優しさは民に向かって十分発揮して頂戴。私に慈悲を向けたいなら、今私がしていることをほっといて頂戴!」

珠晶は言いたいだけそういうとくるっと供麒に背を向けた。
その様子を笑いを押し殺しながら窓の外から伺っている人物がいる。

「相変わらずだね、頑張りやの珠晶。」

声に出さない呟き。
口に突っ込まれた饅頭を取り出す供麒に利広は苦笑を浮かべた。
彼の痛いほど主上を思う気持ちがわかる。
多分自分も同じだから。
すたすたと廊の向こうに消えていく、華やかに着飾られた少女の翻る袞を供麒は悲しげに見送った。

利広は供麒をそのままにすう虞に騎乗しなおすと、珠晶の私室、正寝へと回り道をした。
ひょい、と窓を覗こうとして利広はぎょっとした。
そこには可愛い顔をめいっぱいしかめっつらをさせた少女が自分を睨んでいたのだ。

「利広の悪趣味。」

珠晶の言葉に利広は目を見開いた。
そしてつぎににっこり笑う。

「周知の事実だと思ってたけど改めて言われることかな?それより供麒におやつをあげちゃったんじゃ、珠晶のおやつがなくなって困ってるんじゃない?どう、これ?」

利広は懐からここに来る前に街で買った饅頭を差し出した。
連檣でも随一と言われる人気の饅頭の店の包み紙に珠晶の目が輝く。

「ありがとう、利広。よかったらお部屋に入らない?お茶くらい私でも淹れれるわ。」

珠晶が包みを受け取ると、利広は窓に足をかけた。

「たまには表から入りなさいよね・・・、あなたがいきなりここにいると女官たちが驚くんだから。」

珠晶の小さな小言すら聞き流して、利広は正寝へと入る。
少女の部屋とは思えないほど、すっきりとして余分なものが何もない。
目に付くものといえば、大きな書棚にぎっしりと詰め込まれた書の類と、書机に置かれた数冊の書と書きもの。
瀟洒な卓子に茶器を用意し、珠晶は湯を取りにその場を離れる。
利広は書机の乗っている書を取り上げた。

「なるほど、灌漑用水を引くのに適した土地の選定か。」

灌漑用水路の建設は国をあげての事業ではあるが、管理の難しいところに水路を引けば塩害をおこしてダメージを与えてしまう。
管理しやすく、またなるべく多くの土地に平等にひけるように設計を考えなければならない。
そのためには土地の特性をよく知らなければならない。
ある程度土地の選定を行った後、視察を繰り返し灌漑用水路の建設準備に入る。
土地の選定は吟味をしなければならないが、灌漑用水路を早く引けばそれだけ民にとってはありがたいことで、なるべく急ぎたい珠晶にとっては自分のわずかな休息すら惜しいのであろう。
ぱらぱらと書をめくりながら利広は難しい顔をした。
この土地は新しく開墾された土地ではあるが、水路を引くにはかなり難しい土地である。
一歩間違えば塩害、氾濫を招く恐れがある。

「難しいのはよくわかってるわ。だからよく吟味しないとね。」

そのとき盆に茶器を乗せた珠晶が戻ってきた。

「でもやらなくちゃいけないわ。かつてそこは農地だったとこなの。」

利広が別の書の表書きをみる。
地史である。

「でも塩害と王が斃れたことでここの開墾されてた土地は荒れ果てたわ。塩害を起こすと言うことは以前の水路がよくなかったのよ。管理の難しい灌漑水路を作ったんだわ。実際に同時期に開墾された別の土地では土地は荒れなかった。」

利広は頷く。
さすが王である。
そして思慮深い。

「なるほどね。珠晶はこの土地に行ったことがあるのかな?」

勧められるよりも先に利広は書を片手に椅子に座ると、盆から珠晶の注いだ茶碗を手にしてお茶を啜る。
珠晶は小さく首を振った。
王になってからこちら、ほとんどの時間を霜楓宮で過ごしている。
覚えることが多すぎて外に出る暇すらない。
たまに頑丘を伴って視察にではするものの、側近たちの諫言がうるさく、ろくに民の声を聞くことすらできない。
いっそのことお忍びで視察に行きたいが、時間もなければ王の教育係である三公は口うるさく、その口うるささも理解できないことはないから今ひとつ押しが弱く踏み切れない。
珠晶が登極して70年。
長いようではあるがあっという間の70年だったのだ。
妖魔はでなくなったものの、疲弊した民、土地を建て直すにはまだ足りない年月である。
いまだ反乱分子もいて、時々争乱が起こることもある。
恭のすべてを統治するにはまだ時間がいる。
でも早く民に安寧をもたらしたい珠晶としては、寝る間を惜しんで考えなければならないことが山積しているのである。
珠晶は利広の行儀を気にする風でなく、もうひとつの書を書机からとりあげ、椅子に座る。
利広の持ってきた饅頭を片手に頬張る。
一口食べて珠晶はまじまじと饅頭を見た、

「おいしいわ。」

昼食を食べ損ねて空腹だから、というのもあるであろうが、その饅頭はさすが連檣随一と誇るだけの美味しい饅頭であった。
でも何より利広の優しさが珠晶の心に響いたのだ。

「それはどうも。買うのに結構ならんだ甲斐があったというものかな。」

利広も饅頭をひとつ頬張る。

「珠晶、この土地なんだけどね・・・。」

利広は珠晶に書を見せながらあれこれと自分が見聞きした土地のことを色々話し出した。








驚くほど短時間で明日の朝議で話し合うための資料が完成した。

「あなたって本当に色んなとこに行ったことがあるのねぇ。」

珠晶は驚きと羨望の眼差しで利広を見た。

「うん、王が登極する前から船に乗ってあちこち行ってたからね。」

利広はにっこりと微笑んだ。

「私も諸国を見て回りたいわ。もっと色んなことが知りたい。書ばかりじゃ知ったことにはならないもの。」

珠晶がいいながらひとつ小さく欠伸をした。

「供麒の心配もわかるな、珠晶、少し休んだらどうだい?」

利広は席を立つとひょい、と珠晶を抱き上げた。
するり、と珠晶の霞披が滑り落ちる。

「夕餉までいま少し時間があるからそれまで横になりなさい。顔色の悪い王じゃ官たちは朝議どころじゃなくなるからね。供麒の言葉もたまには受け止めておあげ。彼は珠晶のことが大好きなんだから。」

珠晶の瞼はもう起きてられないほどに重かった。
利広の言葉が耳に心地よく、抱き上げられたその広い胸に頬を摺り寄せる。
供麒の心配もよくわかっている。
けれど珠晶にはしなくてはならないことが多い。
利広は抱き上げた珠晶の体がまだ幼いことに改めて思い知らされる。
もしかしたら彼女を王に登極させたのを阻んだほうがよかったのかもしれないと、自分本位な思いが浮かぶ。
大人であったら。
すべての人を魅了する美しい女王になっていただろう。
その美しさは本人の意思など無関係に人心を惑わすほどに。

「天も酷なことをする・・・。」

利広は苦笑した。

「君が十二で登極することが天意だったんだね・・・。」

珠晶は遠いところで利広の苦笑いを聞いていた。
何が言いたいのだろう?
聞きたいが瞼が重くて持ち上がらない。

臥牀に珠晶を横たわらせる。
ふと珠晶の髪に挿した何本もの簪が目が留まる。
見事な細工のそれらの簪は自分が贈ったものも含まれていて、利広は知らず微笑んでいた。
ひとつひとつそれを抜いていく。
豊かな黒髪がすべるように解かれる。
利広の大きな手が珠晶の髪を梳く。
ふと視線に気がついて利広が扉のほうを見遣った。
供麒が立っていた。

「感謝します、卓郎君・・・。」

利広は苦笑した。
供麒はすべるように珠晶の臥牀に歩み寄った。

「主上はいつも自分に厳しすぎます・・・。」

供麒がそっと珠晶の髪を撫でた。
柔らかな絹のような黒髪。

「うん、でもね供麒。彼女は王だ。だからやらなくちゃならないことはたくさんあるんだ。」

利広の言葉を供麒は理解している。
けれどもそれ以上に他の王と比べて年少の身体を持つ彼女がどれだけ痛々しく見えることか。

「君は気持ちだけでいいんだよ、供麒。そう思ってくれる君の心があるから珠晶は頑張れるし、王の務めを果たせるんだから。」

利広は宗麟が脳裏に浮かんだ。
美しくたおやかな宗麟―――昭彰。
彼女の民を思う慈悲深い心が、王が、自分たちが国を統治する力を与えてくれる。

「彼女が大人の女性でなくてよかった。でなければいくら彼女が登極しても恭は荒れただろう。たった70年でここまでにはならなかっただろう。彼女が十二歳で登極したことこそ、天意なんだ、供麒。」

荒れた国を見るのはいつも心が痛む。

「私はもう帰るけど、珠晶をよろしく頼むね、供麒。」

利広は立ち上がった。
珠晶の髪から抜い簪を卓子に置く。
利広は来たときと同じようにひらりと窓を越えた。
すう虞は大人しく窓辺で待っていた。

「母上がうるさいから一回奏に戻るよ。」

すう虞に騎乗すると利広は首元を軽く撫でた。
すう虞はぐるぐると喉を鳴らすと、2歩3歩と駆けるとふわりと空に舞い上がる。
供麒は利広を見送った。






珠晶は女官に起こされてとろとろと目を覚ました。

「あら、もうこんな時間。」

珠晶は窓辺を見た。
日はすでに傾き夕暮れになっている。
起き上がった自分の身体に流れる黒髪を見て、髪に手をやると簪がすべて抜かれていて、結われた髪が解かれていた。
袞は脱がされていたし、霞披も椅子の上に置かれている。
卓子の上には挿していた簪が何本かきちんと揃えられて置かれている。
珠晶はそれを見て見慣れない簪が一本、余分にあることに気がついて手に取った。

「主上、どうしましょうか?もう一度髪を結いますか?」

女官の言葉に珠晶は首を振った。

「今日はもういいわ。正装しないで夕餉をいただくのが失礼じゃなければここに運んでくれない?」

珠晶の言葉に女官が頷く。
そして卓子の上の簪を厨子にしまうと会釈してその場を下がった。
しゃらん、と簪を手に取る。
鈴の音も愛らしい薄く繊細な金細工の花の施された歩揺の簪。

「もう、ほんとに・・・ね。」

女官達が入ってきて夕餉の準備をしだす。
薄暗くなった部屋にあかり灯され、温かな湯気をあげた菜が運ばれてくる。
珠晶の寝乱れた襦裙を女官が整える。

「ねえ、この簪、明日挿したいわ。」

珠晶の言葉に女官が真新しい簪を見る。

「まあ、新しい簪ですか?どなたが?」

繊細な歩揺に金色の鈴。
小さな繊細な細工の金色の花がいくつも連なり、これが注文して作らせた品であることが一目でわかる。

「さっきここに来た風来坊よ。夕餉が済んだらお礼状を書かないとね。」

珠晶の言葉に女官が一瞬目を見開き、そして微笑んだ。
風来坊、というだけで誰のことかを理解できるほどにこの女官は何度も驚かされているのだ。

「かしこまりました。ではそういたしましょう。」

珠晶の長い髪を食事しやすいように軽く結うと、女官は微笑んだ。