林檎の花弁
うららかなある日の霜楓宮。 今日は珍しく奏王からの使者という形で利広が訪れていた。 政治がらみであるのは間違いないことではあるが、さして切羽詰ったことでもなく、珠晶は利広をもてなすために庭園でささやかな茶会を開いた。 掌客殿に通され、一通り取り交わされる形式ばった挨拶のせいであろうか、珠晶の様子がどことなく愁いを秘めている様子に利広は気にはなったが、天官たちがひしめく中では特に必要以上に話をするのも憚られる。 こうして数人の女官と供麒らで行われる私的な茶会になって、利広はようやく少しほっとした気持ちになった。 美しい花々が咲き乱れているが、奏のように華やかで極彩色の大輪の花の多く咲く清漢宮の庭園とは違って、霜楓宮は可憐でたおやかな細い葉をもつ花々が美しく配されている。 木々に咲く花もどれも可憐で愛らしい。 利広はぱきり、と林檎の花の枝を折った。 そしてそれを女官に渡す。 甘い芳香の白い林檎の花は、それだけでお茶の時間に柔らかな時を演出する。 利広は霜楓宮のこんな雰囲気が好きだ。 女官は心得たように花器に林檎の花を生けた。 そして申し合わせたように、するするとその場から下がっていく。 残されたのは珠晶と供麒、利広だけである。 珠晶はそっと林檎の花に指を伸ばす。 はらり、と零れたその花びらを手の平に受け止めると、利広に用意されたお茶にそっと浮かべた。 「相変わらず素敵な趣味の持ち主だよね、珠晶。」 利広は嬉しそうににっこり笑った。 「あなたみたいにあちこちでいろんなことを嗅ぎ回る悪趣味より、よっぽど素敵な趣味でしょ?」 珠晶はにっこりと笑うとそっと自分のお茶にも花びらを浮かべた。 柔らかな白い花びらは、琥珀色のお茶に可憐な色を添える。 「随分だなぁ、これでも奏国太子としての仕事を全うしてるんだけど。」 利広は苦笑しながらお茶を啜った。 林檎の甘い香りと、ほろ苦いお茶が口の中で混ざって柔らかく喉を潤す。 「今日は奏国太子としてのお仕事みたいだけどね。」 珠晶がばっさりと切って捨てる。 珠晶だってちゃんと気が付いている。 利広が度々霜楓宮に訪れるのには理由があることを。 何人か女官や官たちが利広に幾許かを掴まされて、彼に情報を流している。 それは何も恭の宮廷内だけではなく、世界中にわたって情報を得るために行われているのであろう。 「うん、たまには仕事をしろと家族がうるさいから。そういや珠晶、芳の公主のことはお疲れ様だったね。」 珠晶は苦笑した。 芳の公主、いやもと公主を奚として宮廷内で預かり、そのもと公主が装身具のいくつかを盗んで出奔した。 その盗まれた装身具の中にが利広から送られた私的に贈られたものも入っていた。 「ほんとうにごめんなさい。本来なら供麒を遣わせて奏に謝罪に行かなくてはならないのに…。」 珠晶は俯いた。 「気にしなくていいよ、丁度また出かけようとしてしてたところを王に捕まって、供王が供麒を奏に遣わせるようだから、おまえが恭に行って話をしてこい、って言われたんだ。」 恭王の後ろ盾になってくれている奏王は、珠晶が供麒を遣わす内容を慮り、代わりに卓郎君を供に遣わして供麒を国から出なくてもよいように取り計らったのである。 珠晶は奏王の申し出に嬉しく思い、そして恐縮した。 だから奏の使者として正式に訪れた利広のために、美しい庭園で自らお茶を用意して歓待したのである。 「本当にごめんなさい。結局盗まれた品は戻ってきてないの。多分切り離されてばらばらになって売り払われたんだと思うわ。祥瓊はなんのかんのいってもあれらの美しさを損なうようなことはしないはず。柳で盗まれたか、売り払った店でばらばらにされたかだわ。」 祥瓊は目が高かった。 どの品がいいものなのかよくわかっている。 そして価値が高いだけでなく、その品の美しさもわかっていることだろう。 心無い柳の商人によって、それらの品々が壊されたことが悲しい。 そしてその品々の中には珠晶が即位して、利広が使者として訪れた時、利広が個人的にと言ってくれた贈り物の銀の花釵 があったのだ。 珠晶のなかでは大切な一品である。 「なるほど。それで珠晶は気落ちしてしまっているんだね。気にしなくていいよ、といったところで無理かな…」 利広はちらり、と庭園の奥に身を潜めている夏官に視線を投げた。 夏官はそのわずかな利広の仕草に観念したように出てきた。 「久しぶりだね、頑丘。」 利広はにっこり笑った。 「卓郎君としてお会いするのはお久しぶりです。」 頑丘はその場に膝をついた。 「利広でいいよ、頑丘。で、なんでそんな渋い顔をしてるのかな?」 頑丘は立ち上がると珠晶をちらりと睨んだ。 「すべて主上の計算済み…そうだろう?珠晶。」 頑丘の言葉に珠晶が小さくため息をついた。 「全く奏まで巻き込んでお前は一体どこまで他国を巻き込むんだ!」 頑丘が珠晶を怒る。 「好きで奏を巻き込んだわけじゃないわよ。あの子が勝手にあの花釵 を持ち出したのよ。他でもいいのにね。」 このあたりは珠晶が登極する前もあとも全然変わらない。 頑丘は表向き夏官として、珠晶の護衛にあたっている。 しかし臣下になってもかわらないのは朱氏としての誇りと、珠晶を遠慮なく叱るところである。 利広は苦笑した。 「で、主上は一体何をお考えで?」 利広はにっこり笑って珠晶を見た。 珠晶が利広の贈った花釵を大切にしてくれていたのは知っている。 もちろんそれだけではなく、珠晶は物を大切にする。 決してなくなってもよいなどとは思っていないはずである。 「頑丘の言ってることは半分当たっていて、半分間違ってるわ。祥瓊が出奔するのは計算済みだったけど、こんな結果になることは私の計算間違いだったの。盗られた物もかえってくると思っていたし。」 珠晶は小さく肩をすくめた。 利広はなるほど、と思った。 珠晶が芳の公主の身柄を引き受けたと聞いた時、珠晶が何を考えて芳の公主を預かったのか理解はしていた。 珠晶には芳の公主に我慢がならなかったのだろう。 「逃げ出すだろうな、とは思ったの。で取り押さえて刑罰を与えて、律法を学んで欲しかったの、自分の国の律法がいかに民を苦しめるものであったか…でも取り押さえられないし、物は戻ってこないし。」 珠晶は小さくため息をついた。 祥瓊には逃げられ、まあこれはどうでもよいとは思っているが、持ち出された品が戻ってこないのだ。 柳には持ち出されたものの目録も与えて、祥瓊の捕縛を依頼した。 柳は法治国家として芳よりも古く、また行き届いている。 だから必ず祥瓊を捕らえて、彼女が盗んだものも戻ってくると計算していたのが狂った。 祥瓊は逃げて、持ち出されたものは戻ってこない。 一体柳はどうなってしまったというのか。 珠晶はきりっと唇を噛んだ。 珠晶はこのときになって、ようやく柳への不信を抱いた。 芳は柳に倣い、法治国家として優秀であった。 しかしゆきすぎた刑罰は民を苦しめるだけである。 芳の民が浮民となって恭へ押し寄せるようになったとき、恭にこれらを長期にわたって支えられるかどうか珠晶は冷静に判断した。 恭は芳とともに自滅するわけにはいかない。 珠晶は判断した。 恭に懇意のあった州候の愁いを耳にして、彼に蜂起を促した。 峯王を弑した恵候は自らその罪を背負い、次期峯王が立つまで芳を支えることを供王に約束した。 恭は恵候を支えることを約束した。 そこまでは珠晶の計算どおりだった。 蓬山に麒麟がいない。 次期峯王が立つまで、芳は苦難の道を歩まねばならない。 麒麟がいなければ王は立たない。 どこまで恭は持ちこたえられるか。 加えて柳への不信である。 法治国家として名高い柳が、祥瓊を捕らえられなかった。 珠晶が柳に放った密偵によれば、祥瓊らしき女性を捕らえたが解放した、という情報がある。 その兵士がどうやらその女性から金品を受け取り、解放したのだという情報を得た時、珠晶はまさかと思った。 柳の官吏が腐敗している。 傾いた国は芳だけでなく、柳までもであった。 すでに柳と戴の国境の海域では妖魔が出るという。 戴の混乱は聞いている。 しかし妖魔の出現は戴のせいばかりではなかったら? これはよほど気合を入れないと恭は生き残れない。 そのためには大国奏との連携を強めておく必要がある。 だから珠晶は供麒を遣いに出すつもりだったのだ。 すべてを知っている頑丘をつけて。 頑丘は珠晶を個人的に支えている。 外になかなか出られない珠晶に代わって、諸国を巡り情報を珠晶に逐一報告してくれている、腹心の臣下なのである。 しかし柳の情報がなかなか得られない。 隣国であるにもかかわらず。 「もうそれ以上言わなくてもいいよ、珠晶。私もこれから行ってみるから。多分、そうだね…自分の目で見ないとなんともいえないけどね。」 利広は珠晶の頭を撫でた。 この幼い姿の女王の肩にかかる重圧はいかほどのものであろう? 奏(じぶんたち)は王の責務を家族が等分して担っている。 雁は優秀な官吏を育て上げて、延王が彼等を重用して国政を行っている。 恭は? この国にも優秀な官吏たちが育ってきている。 それは珠晶がまず国家事業のひとつとして力を注いだことのひとつである。 しかし恭は雁や奏から比べるとまだ若い。 その分まだ大王朝ではない。 だから珠晶にかかる責務は、利広が想像する以上に大きく、重圧である。 しかしそれをこなしていくだけの器量を持つものが王なのである。 恭の後ろ盾となっている宗王から、利広は出来る限り供王の手助けをするようにと言い付かっている。 しかし実際利広は珠晶を見守るしかできない。 「珠晶、恭はこれからのことを考えて物価の統制や備蓄、荒民の援助をお願いしたい。珠晶のおかげで芳はしばらくは持ちこたえられるだろう。しかし王のいない国は荒れる一方だということは君が一番わかっているだろう?国庫が厳しければうちが貸すことができる。お互いこれから手を取り合って頑張るんだ。」 珠晶は利広の言葉に目を見開いた。 「さすがね…宗王様はすごいわ。でも安心して。」 珠晶は指をたてて胸を張った。 「私だってだてに商人の娘だったわけじゃないのよ?いったでしょ、私はお利口さんだって。すでに木材、穀物、石材の物価統制をとるべく地官、冬官たちに経済状況の把握の調査を行わせているわ。商人たちの組合を作って価格の統制も行えるように組織作りも進めてるの。あとは船ね。うちは造船技術が雁ほど進んでいないから、雁から技術者を借りられるように現在交渉中よ。港も整備しないと。あ、そうそうもちろん頑丘はじめ、朱氏たちが指南して各地の庠学では妖魔からの退避方法を義務教育とし、国境付近の里や海の側の里では必ず乾のように妖魔から里を守るような備えをした建築を義務としてるのよ。まだ内陸の里までは進んでないけれど。」 利広は苦笑した。 やはり彼女は王である。 こっちが心配する以上にあれこれやってのけている。 頑丘が苦笑した。 頑丘も同じ思いなのだろう。 「じゃあ俺はそろそろ失礼する。柳からの使者が来る予定なんでな。報告はあとからする。供麒、おまえも来い。珠晶、供麒にも手伝ってもらいたいことがあるんだ、いいな?利広、たまにはここでゆっくりするのもいいぞ。」 珠晶が頷くと供麒は席をたって頑丘と並んだ。 頑丘の最後の言葉に利広が笑う。 「うん、もう少しここでゆっくりさせてもらうよ。私にもあとからその報告をちらと聞かせてくれたらね。」 利広の言葉に頑丘が苦虫を噛み潰したような顔になる。 その言葉に珠晶が利広の頬をつねった。 「い、痛いってば珠晶!」 「全くあなたって人はほんと調子がいいんだから。頑丘を困らせないでよ。」 「珠晶だって調子いいと思うよ?私のあげた花釵を餌にしたんだから。」 利広の言葉に珠晶の頬がぱっと朱に染まった。 「あ、あれは何もそんなつもりじゃ…」 珠晶の言葉がしどろもどろになる。 「芳の公主が逃げ出すことを承知で奚(げじょ)にしたんだろう?それも王の御物である、女性にとっては憧れである装身具を扱う部屋の掃除をさせたりなんかして。芳の公主の自尊心をくすぐってわざと盗ませて捕まえてやろう、という算段だったんじゃないかな?珠晶も私に負けず劣らず悪趣味だと思うけどなぁ。」 利広のほうが何枚も上手である。 「あれは範の銀細工師に特注で頼んで作ってもらったんだよなぁ。玉も戴の良質なものを彫ってもらって。あれひとつ彫るのにどれだけ時間のかかるものか…。」 無くなった銀の花釵には玉を彫って美しく咲いた花が何個もついていた。 零れるように歩揺にはやはり花をかたどった玉が連なり、繊細にして可憐な花釵は国宝級といっても過言ではない素晴らしい出来栄えのものであった。 「だから!すごく申し訳なくって、だから供麒に奏に謝罪に行かせようと思ったんじゃないの!本当は自分で謝りたいけど、私は国をなかなか出られないから…。だから利広が来てくれて嬉しいし、本当に申し訳なく思ってるの!」 利広は笑った。 せっかく珠晶のためにと思って特注で作ってもらったものだけれど、どうでもよかった。 たまたま芳の公主がその花釵を選んで持ち出したのだろう。 それだけ見る目があるということでもあるが。 しかしどうにもこのまま気にしなくてもいいよ、と言っても珠晶は気にするだろう。 利広はしばし考えた。 考えて、どうしたものかと珠晶を見た。 「…悪かったと思ってるのよ、本当に。せっかく利広がくれたものなのに…。」 珠晶の蚊の鳴くような声に我ながら意地悪かもしれない、と利広は少し良心が咎める。 ――まあ減るものではないし。 そう心に決めると利広は大きく息を吐いた。 「…それじゃあ珠晶には償ってもらおうかな。」 ちらり、と珠晶を見る。 やっぱりどうみても12歳の少女である。 本当は90歳を越えてるけれど。 そんなことを言ったら自分は600歳を越えているけれど。 やはり良心が咎める。 少女をどうこうするという気持ちは利広にはない。 ないけれど目の前の少女は守ってやりたいし、誰よりも愛しい。 家族を愛する気持ち以上に、この少女を愛しているといえるだろう。 「口付け、してもらおうかな。それで帳消しにしよう。」 利広の言葉に珠晶がぽかん、と口を開いた。 何か言いたそうだけれど言葉がでてこないのか、唇を震わせる。 「な、な、な、何考えてるのよーーーーーー!!!!」 珠晶が真っ赤になって怒鳴ると、利広は我ながら意地悪だな、と思いつつも珠晶の反応が楽しくて仕方が無い。 「あの花釵、あれは奏国からじゃないんだよね。ほら、私は諸国を旅してることが多いからあまり国政に携わってないんだ。だから兄上や文姫から比べると禄が少ないんだよねぇ。でもその中から珠晶に喜んでもらいたくてあの花釵を作ってもらったんだよなぁ。」 こうなると珠晶は弱い。 「…わかったわよ…。」 珠晶は席を立って利広の側に寄った。 真っ赤になって俯いている姿は思った以上に利広の心を刺激する。 「目、閉じててね。」 珠晶の言うように利広は目を閉じた。 しかしいつまでたっても珠晶の唇の気配が感じられない。 利広は片目を開けた。 周囲を気にしながらも珠晶が唇を近づける。 利広はあわてて片目を閉じたが、近づいた唇がまたも離れていく。 そんなじれったい時間がどれだけ過ぎたろう。 利広は小さくため息をついた。 さすがに珠晶を困らせたようである。 このあたりは利広も大人である。 すっぱりあきらめた。 「もういいよ、珠晶。君の気持ちだけでもう十分だから。」 利広がそういって立ち上がり優しく笑うと、珠晶はぽろり、と涙をこぼした。 「ご、ごめんなさい…。」 よく考えれば珠晶は玉座に就いて、国政に一心に心血を注いできた。 人を好きになるとか、恋をするなんてことは考える暇などなかったであろうほどに。 まるでつけこむように口付けを強要した自分が今更ながら恥ずかしかった。 それでも。 愛しいのだこの少女が。 そっと珠晶の涙を指先で拭う。 やはり利広にとって、珠晶は大切な存在である。 彼女を愛しいと思う気持ちは、ごく自然に利広を動かした。 そっと珠晶の顔を覗き込むようにして。 そして。 不意に重なった唇に珠晶が驚いて固まる。 そんな珠晶をやわらかく抱きしめて利広は自分の行為に驚いていた。 甘い甘いこの瞬間。 林檎の花びらにもにた柔らかなその感触と、その香り。 そして乾いた音ともにその静寂は破られた。 「なんてことするのよ、この嘘つきーーーーー!!!!」 怒って襦裙の裳裾を翻して珠晶はぱたぱたと立ち去っていってしまった。 あとに残された利広の頬にはしっかり手形が残る。 「やっぱり諦められない、かな?」 利広は苦笑した。 そのとき、遠く離れたところで必死に供麒が出て行こうとするのを止める頑丘がいた。 「頑丘、卓郎君は主上になんてことを!どうにかしなくては!頑丘からも卓郎君にどうか言ってください!」 供麒の悲痛な訴えに頑丘は天を仰いだ。 利広が珠晶を好きだということはもうかなり前から知ってはいたが、麒麟はやはり王を敬愛している。 一種の恋仇とでもいえるかのかもしれない。 「ほっとけ供麒、こういうことは当事者以外が口を突っ込むものじゃない。」 多分珠晶も利広を好きなのだろう。 でも彼女はそういうところはまだ子どもなのだ。 恋などする暇はなかったのだから。 でも影に日向に、奏王の名で珠晶を支えているのはやはり利広である。 珠晶もそれはわかっているに違いない。 だから利広に心惹かれてもおかしくはないのだ。 おかしくはないのだけれど。 王の恋は難しい。 王は戸籍もなければ結婚もできない。 当然里木にを望むことも出来ず、子も得られない。 それでも人なのだ。 王でも人であることには違いない。 だから恋もする。 ある種不毛な恋愛である。 なんといっても珠晶はこれから先もずっと12歳のままなのだから――。 それでも恋はする。 人を愛しいという気持ちがあれば。 良い王として十分な資質ではある。 頑丘は複雑な気持ちでため息をついた。 娘を取られた父親の気持ち、というのが一番近いのかもしれない。 だが利広なら。 珠晶を守り続けられるだろう。 いや利広だからか。 王の珠晶を、しばし休ませ憩わせることのできる人間がいれば、珠晶はこの先もずっと王であり続けられると頑丘は確信している。 珠晶が走り去って、供麒が頑丘の手を振りほどいて正寝へと追いかけるのはそのすぐあと―――。 「利広の馬鹿、馬鹿、馬鹿、ばかーーーーーっ!!!!」 一人正寝で珠晶は枕を壁に叩きつけていた。 「どうしてあんなにも飄々としてるわけっ?!信じられないっ!」 女官たちを人払いして遠ざけているとはいえ、珠晶は怒りにまかせて枕を叩き続けた。 女官たちがいれば何事かと珠晶を宥めにくるであろう。 ひとしきり叩き続けて騒いだあと、珠晶はぽろぽろと涙が零れてきた。 「私の気持ちなんて全然わかってないんだから…」 枕に顔を埋めて珠晶は零れる涙を止めようとする。 王は戸籍がない。 婚姻もできない。 いやそれ以上に利広にふさわしい相応の年齢の年恰好にすらなれないのだ、珠晶は。 だからずっとこの気持ちが単なる好きであって、それ以上のものであってはならないとずっと自分を戒めてきた。 なのに。 珠晶の健気な気持ちなどどこ吹く風で、珠晶の心を乱した利広の行為に珠晶は泣きたくなる。 「私、そんなに世間知らずの子どもじゃないってなんでわからないのよ…。」 二人並んでも珠晶の背は利広の胸のあたりまでしかない。 どうあっても大人と子どもなのだ。 それが何年、何百年と経っても。 こんなときだけ自分の今の立場が恨めしい。 世界を巡る利広には恋人のひとりやふたりはいたかもしれない。 いや一夜の恋の相手だってたくさんいただろう。 それらすべてに今珠晶は激しく嫉妬していた。 そしてどうにもならない自分に腹をたてていた。 「利広なんて、利広なんて、大っ嫌いなんだから!!!!」 思い出したように叫ぶと同時に供麒が許しも得ずに珠晶の部屋へと飛び込んできた。 「主上!」 涙で化粧が汚れ、きれいに結い上げた髪もところどころ乱れている珠晶の様子に供麒が驚き、そして駆け寄る。 「失道しても知らないわよ、私今すっごく醜い心になってるんだから。」 珠晶はそういうとそっぽ向いた。 しかし珠晶の王気はまぶしいほどに澄んで明るく、神々しいまでに美しい。 どこにも翳りはなく、失道など起こすはずもない。 供麒は珠晶を抱きしめた。 敬愛する女王。供麒だけの王。 「私が…私があなたを選んだから…」 しかし蓬山から見えたあの神々しいまでの王気に、供麒は震えた。 自分が仕える人はこの人しかいないのだと。 「ばかね、供麒。」 珠晶はくすりと笑った。 「あなたが私を選んでくれたから、私が今あるのよ?」 しかし、と供麒は言いかけた。 もしあのまま王に登極しなかったら、珠晶は一介の商人の娘として幸せな生活があったはずである。 頑丘のもとで朱氏になっていたかもしれない。 少なくとも年相応の美しい女性となって、多くの人々を、利広を魅了したはず。 「もしね王になっていなかったら、私と利広の縁はあそこで切れていたはずなんだから。」 そのとおりである。 「だからね、利広が悪いの。そうしていいの。供麒は何も悪くない。」 ずっと禁じてきた不可侵の領域。 そこに利広は一歩踏み出してきた。 今更、という気持ちとようやく、という気持ちがないまぜになる。 踏み込まないで欲しかった、いや踏み込んで欲しかった。 自分でも相反する気持ちが心を乱す。 そうして後戻りできないのだ。 この気持ちを知ってしまったから。 あのとき、なんであんなに珠晶が迷ったのか、利広は気が付いていない。 二人の今の関係を壊すことにもなりかねないからだ。 いやもしかしたら利広にとっては軽い気持ちだったのかもしれない。 けれど珠晶には違うのだ。 利広を好きだと認めてしまうことは、今の自分を後悔することでもある。 「だから全部利広が悪いのよ。」 珠晶は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 |